守山区上志段味にある勝手社。石段を上った先に社殿がありますが、この小高い丘は、約1,500年前につくられた「勝手塚古墳」です。
神社としてお参りしている場所が、古代の古墳でもある。その歴史を知ると、いつもの風景も少し違って見えてきます。
今回は、勝手社と勝手塚古墳、そして志段味古墳群をご紹介し、なぜ古墳の上に神社が建てられたのか、私なりの考えもお伝えします。

地域の皆さんが守ってきた勝手社
勝手社は、上志段味の皆さんが長く大切にしてきた神社です。主な祭神は、忍穂耳尊(おしほみみのみこと)。1671年の記録には、すでにその名前が記されています。1909年には八劍社などが合祀され、地域の氏神も八劍社から勝手社へ移りました。
境内を清掃する方、祭りを支える方、お参りをする方。そうした地域の皆さんの営みによって、この場所は守られてきました。木々に囲まれた社殿からは、長い年月と、人々の思いが感じられます。
約1,500年前の姿を伝える勝手塚古墳
勝手塚古墳は、6世紀初めに築かれた全長約53メートルの「帆立貝式古墳」です。大きな丸い部分に短い前方部が付き、上から見ると帆立貝に似ています。勝手社の社殿は、丸い部分である後円部の頂上にあります。
貴重なのは、墳丘だけでなく、周りの堀「周濠(しゅうごう)」と、その外側の土手「周堤(しゅうてい)」が残っていることです。周堤の高まりが現存する古墳は、愛知県内では勝手塚古墳だけとされています。
木々の間に見える地面の起伏にも、約1,500年前の姿が残されています。また、円筒形や人物をかたどった埴輪なども出土しています。当時、後円部に埴輪が並んでいた風景を想像すると、古墳への関心も深まります。

守山区の大切な財産、志段味古墳群
上志段味では66基の古墳が確認されており、これらをまとめて「志段味古墳群」と呼びます。東谷山やそのふもと、庄内川沿いの段丘などに、時代も形も大きさも異なる古墳が築かれました。
勝手塚古墳は、白鳥塚古墳、尾張戸神社古墳、志段味大塚古墳などとともに、国の史跡に指定されています。
古墳の移り変わりをたどることで、地域の歴史や、当時の有力者たちの勢力の変化を考えることができます。これほど長い歴史を身近に感じられる場所が、私たちの守山区にあります。その価値を、多くの方に知っていただきたいと思います。
なぜ古墳の上に神社を建てたのか――南部の考え
なぜ、古墳の上に神社を建てたのでしょうか。今回確認した資料では、その理由までは分かりませんでした。ここからは私、南部の推測です。
まず、古墳が神聖な場所として受け止められていたのではないでしょうか。先人を葬った大きな塚に畏敬の念を抱き、神様をお祀りするのにふさわしいと考えたのではないかと思います。
もう一つは、周囲より高い場所にあることです。低い場所に比べて水害を受けにくく、大切な社殿を守る場所として選ばれた可能性もあると考えます。

神聖な場所であること、そして水害から守りやすいこと。この二つが理由としてあったのではないかというのが、私の考えです。もちろん、史料によって確認された建立理由ではありません。
一方、古墳の上に社殿があり、今も信仰の場となっているため、内部の発掘調査も容易ではないと思います。自由に掘って、副葬品や埋葬された人の骨などを調べるわけにはいかないでしょう。
全国にも、同じような場所があるのではないかと思います。誰が葬られ、何が納められているのか。歴史への関心からすると、調査に制約があることは残念にも感じます。
ただ、神社として大切にされてきたことが、古墳を守ることにもつながったのかもしれません。歴史を明らかにすることと、祈りの場を守ること。その両方を大切にしたいと思います。
先人から受け継いだバトンを、後世へ
古墳を築いた人々、その後に神社を建てた人々、そして両方を守ってきた地域の皆さん。その積み重ねがあって、今、私たちはこの風景を見ることができます。
受け継いだ私たちにも、次の世代へ伝える責任があります。子どもたちや孫たちにも、この場所の歴史を知り、大切にしてもらいたいと思います。
先人が守り続けてきた古墳と神社を、後世へ。そのバトンを渡すのが、今を生きる我らの使命である。私は、そう考えています。



