令和7年11月24日、名古屋市守山区の守山文化小劇場で、トルコ共和国名古屋総領事館主催のピアノ演奏会が開かれました。
今年は、1890年のエルトゥールル号遭難から135年という節目の年でもあり、日本とトルコの長い友情を改めて感じる大切な行事でした。
私は愛知県議会を代表して開演前に祝辞を述べさせていただきました。名古屋総領事のダムラ・ギュミュシュカヤ様には、このような素晴らしい会を開催いただいたことに心からお礼を申し上げました。こうした機会を通して、両国の絆がさらに深まっていくことを願っています。
15年前の一冊の本が、今日の話につながりました
祝辞の中では、以前からぜひ皆さんにお伝えしたいと思っていた、日本とトルコの友情の物語も紹介しました。
きっかけとなったのは、明成社の
『世界一の親日国トルコ』/森永 堯(もりなが・たかし)氏 著
との出会いでした。
この本を読んだとき、日本とトルコの間に育まれてきた優しい絆に深く心を動かされました。
その中から、特に印象深い二つの出来事をご紹介しました。

① イラン・イラク戦争での日本人救出(1985年)
1985年、イラン・イラク戦争が激しくなる中で、イラクのフセイン大統領が
「48時間後には、イラン上空の航空機は民間機でも撃ち落とす」
と宣言します。
各国は急いで自国民の救出に動き始めました。
しかし当時の日本は、法律の関係で自衛隊機を海外に派遣して邦人を救出することができず、民間航空会社も危険を理由に協力できませんでした。
今の日本では、自衛隊機が救出に行けます
この1985年の経験も背景となり、法整備が進んだ結果、現在の日本では自衛隊機を海外に派遣して邦人を救出することが可能になっています。
危険地域からの邦人輸送、自衛隊機・艦艇の派遣、警護のための武器使用、一定の場合は外国人保護も可能となりました。
こうした制度が整い、今では日本自身がきちんと邦人を守れる体制がつくられています。
そのような状況の中で、1985年当時、
日本人救出に名乗りを上げてくれた唯一の国がトルコでした。
トルコはイスタンブールから危険空域を避けてテヘランへ飛び、
「トルコ国民は陸路で帰国する。日本人を優先して救う」
と、温かい判断を示してくださったのです。
この背景には、著者と当時の大統領との信頼関係、そして困っている人を助けずにはいられないトルコの国民性があったからだと思います。
② エルトゥールル号遭難と、紀伊大島の人々の温かさ(1890年)
1890年、オスマン帝国(今のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が串本町沖で遭難し、600名以上が亡くなる大惨事となりました。
紀伊大島の島民の方々は、貧しい生活の中でも懸命に救助活動にあたりました。
食べ物を分け、衣服を用意し、手厚く介抱し、69名の命が救われました。
生存した乗組員が翌年帰国する際、島民の皆さんは深い感謝の言葉で送り出されたといいます。
トルコでは、子どもたちの教科書にも載る有名な話です
このエルトゥールル号遭難の出来事は、トルコでは子どもたちの教科書にも掲載されており、国民の誰もが知っている話です。
日本の人々が献身的にトルコの遭難者を助けたことを、多くの方がよく知っています。
私は、このような歴史的背景もあってこそ、1985年のあの時、
トルコ共和国が旅客機を飛ばし、日本人救出に踏み切ってくださったのだと思っています。
この出来事を忘れないために串本町には慰霊碑が建てられ、5年を節目に日・トルコ両国で慰霊祭が行われてきました。
今年9月の135年の節目には、在日本トルコ大使も参列されたそうです。
地元・守山で、この美しい歴史を語れたことの喜び
これらの物語は、NHK BS「アナザーストーリーズ」でも今月放送され、映画『海難1890』を通してご存じの方も多いと思います。
私自身、15年前に本を読んで以来、
「この温かい日・トルコの友好の歴史を、いつか誰かに伝えたい」
とずっと思ってきました。
その思いを、
総領事はじめ、トルコ共和国を愛する多くの方々の前で語る機会をいただけたことが、何より嬉しく感じられました。
人が困難の中で互いを思いやり、支え合う――。
その心こそが、トルコと日本の友情の原点だと、改めて胸に刻みました。
そして、心に深く響いたピアノ演奏
ピアノの音色は、一音一音に温かな情緒が込められていて、胸の奥まで染み入るようでした。
静かな余韻が長く残る、忘れられない時間となりました。
最後に、
日本とトルコ共和国のさらなる友好と、両国の繁栄を心より祈ります。



